竹島の歴史を知る数少ない生き証人 - 中原熊彦さん 81歳。

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こんにちは、晋作です。

フェリーがこなくてのんびりした時間を過ごしています。

でもそろそろ生活物資がなくなってきました…。醤油とか…。

 

今月末まで竹島地区会で黒島へのお見舞金を募っているのですが、中原熊彦さん(81)がわざわざ自宅まで持ってきてくれました。

 

せっかくなので、話を聞かせてもらうことに。

息子も一生懸命聞いておりました。

 

 

 

熊彦さんはこんな人。

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その前に、熊彦さんを簡単にご紹介。

熊彦さんといえば「テゴ(竹のかご)作り名人」!

竹島で使われているテゴのほとんどは熊彦さんの作ったもの。

後継者がいないので、今度教えてね、とお願いしてあります。

 

熊彦さんは、81歳にしてめっちゃ元気!!

20歳ぐらいのとき、あばら骨や片方の肺を切除したらしいんですが、それが信じられないほどパワフル!

山の仕事などは他の人と同じようにがんばっているし、魚釣りも得意、食欲もすごいらしいです!

そして、誰にでも優しいおじいちゃんです。

 

 

 

祖父とは仲良し釣り仲間。

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今は亡き私の祖父とは仲がよかったそうで、よく当時の話をしてくれます。

竹島中を釣りして回ったそうで、何匹も大物を釣り上げたそうです。

 

その中でも、籠(こもり)港で釣った「アラ(クエ)」の話は圧巻。

 

現在、籠港は400段の階段(通行禁止)がありますが、その当時はありませんでした。

代わりに「はしけ」と呼ばれていた3本のワイヤーが、写真の3本の赤線の部分にかけられていたそう。

両手の手すり部分と、歩く部分で3本。

さらには、そのあと赤い矢印の崖を命綱なしで上り下りしていたそうです。

 

2人は50kg以上のアラを入れたテゴを背負って、そのはしけと崖を上ってきたそうです!

驚くべきことに、その当時は女性も子供も重たい荷物を背負って籠港を行き来していたそうです。

絶対無理!階段でもきついのに…。

 

昔の人の強さには驚かされます。

 

 

 

 

情緒ある自宅を訪問。

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きれいに整備されている熊彦さんの自宅。

竹島港の近くにあります。

 

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自宅への入り口。

昔は別の場所から出入りしていたそうで、この通路は熊彦さんが1人で、しかも手作業で開通したとのこと!

すごい!

 

 

こちらは昔からあったという貯水槽。

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よく見ると、お墓や神社の狛猫に使われている「竹島石」をブロック上に切り出して使っています。

 

竹島石はこんなところにも。

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家の基礎部分。

 

足りないものを島にあるものや知恵で補って生きてきたんですね。

 

ちなみに、素潜り漁も行っていたそうなんですが、当時はパンツ一丁、手作りの水中メガネで行っていたそうです!

 

 

 

 

人生の大先輩からのお言葉。

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最後に、熊彦さんはこんな言葉を贈ってくれました。

 

「三島村をよくしていくのに、一番大事なのは人間関係。

嘘をついたり人をだましたりしてはダメ。

みんな個性があるから難しいけど、三角、四角じゃなくて丸じゃなければ。

誰とでも仲良くしなさいよ。

あんたたちみたいな若い者ががんばらんといかんよ。」

 

 

がんばりますね!

離島ブロガー晋作

About 離島ブロガー晋作

三島村の竹島に2014年4月にUターンして、妻と息子と娘の4人暮らし。 2015年4月に「NPO法人みしまですよ」を設立。 村の特産品「大名筍」のブランディングをはじめ、観光・特産品開発販売・情報発信で村を盛り上げる活動をしている。 2018年4月、竹島に20年ぶりとなる商店「竹のいえ」をオープン。