こんにちは、晋作です。
三島村の歴史シリーズ、今回は明治~昭和の人口推移について。
明治以降も情報はまだ乏しいです。
特に1900年から50年ほど(グレーの範囲)は情報なし。
わかる範囲でみていきます。
明治の人口推移
明治4年、三島村で初めて”島別・男女別”の人口が記されました。(現存する資料では)
きっかけは“廃藩置県”。
歴史苦手だったんで、拒絶反応が…。
でもよく見ると、“藩”をやめて、”県”を設置した施策ですね。
明治以降も台風・赤痢・ネズミの被害にあっているようです。
特にネズミ!
ひどすぎて、桜島から巫女さんを呼んで祈祷してもらったらしい!
小さい頃はネズミが屋根裏を走る音がよく聞こえましたが、大群が押し寄せてくるのは恐怖…。
ただ、グラフを見てみると、人口は順調に増加。
特に中期の増加が著しいですね。
明治4年の約600人から、明治28年には約1,000人!
60%以上増えてます。
理由の一つは水産業。
竹島に漁協ができ、カツオ・トビウオ漁が盛んに。
枕崎方面に売りに行っていたようです。
硫黄島・黒島でもカツオ・ムロアジを中心に漁をしていたそうです。
もう一つは、硫黄島の硫黄の採掘。
会社を設立し、雇用が増え、本土との交流が進んだようです。
島外との交流が増えたことで、災害などを乗り越えられるようになってきたんですね。
大正~昭和の人口推移
昭和27年に十島村から”三島村”として分村。
そのため、大正から昭和22年までは資料なし。
三島村の人口のピークは昭和25年、1,397人。
その10年後くらいから、急激に減少。
人口減少の原因は、硫黄島の鉱山
昭和39年に閉山し、職を失った人たちが島を離れました。
このころから島の子は中学卒業と同時に島を巣立ち、ほとんど戻らなくなっています。
それには、外的要因も。
- 昭和39年 東京オリンピック
(名神高速道路・東海道新幹線・東京モノレール開通) - 昭和41年 ベトナム戦争の特需による工業の急成長
- 昭和45年 日本万国博覧会
などなど、都会で労働者が必要な時代だったんですね。
今も人口減少の流れは変わっていません。
少しでもいい方向に向けていきたいです。
ちなみに、参考文献は平成2年の資料なんですが、当時の全島民の名前が記載されてました(笑)
わたしの名前も!
今では考えられないですね。
でも、懐かしい名前ばかりで面白い。
では、今回はこのへんで…。
GO!MISHIMA!!
(参考文献:三島村誌)