こんにちは、晋作です。

三島村の歴史シリーズ、4回目。

今回は、“歴史上、三島村の最初の記録” について。

始めて歴史上の記録で三島村が登場するのは、”日本書紀”

“日本書紀巻二五孝徳天皇の条” に竹島が登場
遣唐使船が竹島で難破したことが記録されています。

遣唐使

先進国だった当時の中国へ、先進技術や文化を求めて派遣された遣師団。
600年~614年の間に遣隋使として4回派遣。
隋は滅び、唐になったので、遣唐使として630年~894年までで17回派遣。

遣唐使は初期の2隻から、中末期には4隻に。
航路も、国の情勢や、天候による影響で変化していきました。

  • 大阪~博多~唐(北路・7世紀中頃)
  • 博多~五島~唐(南路・ 8世紀~9世紀中頃)
  • 博多~鹿児島の島々~沖縄~唐(南島路・8世紀代)

“日本書紀”は奈良時代に成立した日本最古の歴史書

これによると、難破したのは653年
7世紀中頃になるので、航路は北路ということに。
博多から中国行こうとして、竹島まで流された!?
それとも、実はその頃から南島路が使われいたのか…。

その後、竹で筏を作り、丸六日ご飯も食べず神島に辿り着いたとか。
神島ははっきりしませんが、長崎県の小値賀島だとも。
6日であそこまで流れるかというと、怪しい。
別の島なんでしょうか。

そんな考察も楽しいですよね。

ここからは竹島の言い伝え。

入り江になっているこもり港に船を入れようとして大破
120人の乗員のうち、115人が溺死。

120人のうち、奇跡的に助かった5人は竹島の小アビ山に漂着
高い崖を根性で登り、半死半生のところを島民が手当し助かったそうです。
その登ってきた場所が今の大山神社
亡くなった大使を祭っています。

溺死してしまった人の多くが、“くの字”に曲がって海岸に打ち上げられていたそうです。
そこから“人曲田”(ひとまげた)という名前に。

その遺体を火葬したのがオンボ崎
昔は”隠亡崎”(おんぼうざき)だったとのこと。
火葬場で遺骨にする人を隠亡と呼ぶそうです。

その後、生き延びた5人は大名竹でイカダを作り、漂流。
なんとか都に帰り着いたそうです。

博多から流されて、難破して、奇跡的に助かったのに、イカダで大海へ行ってしまうとは…。
すごすぎる。

この話は観光ガイドするときにいつも話してる内容でした。
実際にこもり港見ながら想像すると、また一味違いますよ。

星空を見るときはオンボ崎に行くことが多いんですが、その時は考えないようにしてます。

歴史上、三島村が初めて登場した時の話でした。

GO!MISHIMA!!

Author しんさく

2014年4月、三島村竹島にUターン。 翌年、「NPO法人みしまですよ」を設立し、特産品「大名筍」の生産・商品開発・販売をはじめ、島の学校と協働する「ハマギプロジェクト」や、島暮らしを体験し住民と交流しながら人手不足を補う「村おこしボランティア」の受け入れ、情報発信などに取り組む。 2018年には食料・日用雑貨品を扱う、島に20年ぶりの商店「竹のいえ」をオープン。 2019〜2023年に三島村議会議員を務め、2024年には商店に併設する宿泊施設を開業。

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