こんにちは、晋作です。
久々の三島村の歴史シリーズです。
今回は「俊寛」について。
平氏への反乱を企てて、島流しになってしまった僧のお話。
俊寛に限らず、昔の話は各地で諸説あります。
この記事は、三島村の文献に載っている内容をまとめています。
いつの話?
時代は平氏と源氏まで遡ります。
歴史、苦手…。
簡単にまとめてみます。
1156年 保元の乱
当時の“天皇”と”上皇”が対立。
武士である平氏と源氏が天皇側で戦う。
天皇側勝利。
最初は仲間だったんですね。
1159年 平治の乱
平氏のトップ、平清盛は出世街道。
源氏のトップ、源義朝はうまくいかずイライラ。
平氏 vs 源氏
平氏勝利。
その後、平清盛は朝廷の役職のトップへ!
黄金時代!
1181年 平清盛、病気で死亡
1185年 壇ノ浦の戦い
壇ノ浦の戦いで源氏勝利。
鎌倉幕府、1192年「いいくにつくろう、鎌倉幕府」じゃないんですよね…。
1185年「いいはこつくろう」らしい。
と思ったら、だんだんできていったから年代指定ないというのが“標準的な見解”みたい。
1192年 源頼朝、征夷大将軍に任命
今回はこんな時代の話です。
平家を倒そう!という会議がばれて島流し。
1177年 平家黄金期
俊寛を含むメンバーが、「平家やっつけよう!」と密談。
すぐに密告されてばれる。
数名は斬首。
俊寛は、藤原成経・平康頼と硫黄島へ島流し。
もともとは3人バラバラの島だったみたいです。
俊寛の予定地は十島村の悪石島。
遠くて担当の人の心が折れたのかな?
出発地はここ。
石碑が残っています。
Uターン前の職場近かったけど、気付かなかった…。
現在の海まで約1㎞。
海だったところが、それだけ陸地になったんですね~。
俊寛、このとき35歳。
年とってるイメージだったけど、意外と若い。
硫黄島へ。
硫黄島に流された3人には、親戚から仕送りがあって日常生活は困らなかったそう。
島内で俊寛は他の2人と違った行動をしていた様子。
2人は熊野三所権現という信仰に信心があったけど、俊寛はなし。
「信心は無用」ってスタンスだったみたい。
でも僧なんだよね…?
この辺りはよくわからず。
他にも、2人は板切れで1000本の卒塔婆を作って海へ流しました。
(卒塔婆:墓の後ろに立ってる文字が書いてある木の板)
卒塔婆の両面に書いたのは島流しにあった悲しさや、康頼が都に残した母への想いを伝える文。
しかし1000本って!
その1本が流れ着いたのが、広島の厳島神社。
そのことが境内の看板にも書かれています。
この写真はわたしが20歳のころ撮ったもの。
バイクで日本一周した時に、「硫黄島のことが書いてある!」と思って撮影。
この卒塔婆を拾ったのが、康頼の友達。
康頼を心配して厳島神社にお詣りに来た時に拾ったらしい。
このことが、「奇跡だ!」と都中に知れ渡り、清盛の耳にも。
ちょうどそのころ、清盛の娘は妊娠中。(のちの安徳天皇)
でも、身体の調子が悪かったそうです。
そんなときに卒塔婆が拾われたので、清盛に
硫黄島に流刑にした人たちを許した方がいいよ!
と周りが進言。
清盛もそれに納得。
許すことを決めた。
が。
俊寛を除く2人だけ。
俊寛に対する怒りだけは収まらず。
清盛がかわいがってたのに、俊寛の別荘で密談してたというのが一因。
2人が硫黄島を去る時、なんとか自分も乗せてくれとせがんだが、叶わなかった俊寛。
このとき、俊寛36歳。
仕送りも止まり、小さな庵で始まった1人の生活。
その生活はかなりきつかったよう。
翌年に、俊寛に仕えていた有王という人物が、はるばる硫黄島まで。
その時37歳の俊寛は老人のような風貌に。
有王から娘の書いた手紙を受け取った俊寛。
そこに書いてあったのは、末の娘と妻の死。
絶望した俊寛は、絶食して死んでしまいました。
島の人たちは墓を建てましたが、雨水で倒れ、そのまま放置。
すると、おかしなことが次々と村で発生。
島民は墓を庵のあとになおし、神社を建てました。
今は俊寛堂と呼ばれています。
でも、墓は大風で大木が倒れ、壊われちゃったそう…。
硫黄島では“柱松”という行事があります。
竹で作った大きなたいまつのてっぺんに、松のたいまつを投げて火をつけます。
その行事は、俊寛の霊を迎えるための儀式だそうです。
こうやって詳しく知ってみると、また違った視点で硫黄島を巡れそう。
みなさんもぜひ巡ってみてください。
GO!MISHIMA!!
参考文献:「三島村誌」平成2年発行