こんにちは、晋作です。
久々の歴史シリーズです。
今回は竹島の “石の文化”。
島にある “竹島石” と呼ばれる石。
その石は島のいろんな場面で活用されていました。
その中でも、郷土誌 “三島村誌” に載っている石造文化についてまとめました。
船置場完成記念の碑、”エビスサア”
最初に登場するのは、“エビスサア”。
崖のギリギリにある細い道を上ったところにある、船置場完成記念碑。
(上の写真)
※1965年、道路開通の時にこの場所に移転。
1710年、大々的に船置場を切り開いたときのもの。
当時17艘の漁船があったそう。
(参考:1726年ごろの人口が約150人)
この頃に船置場を整備するのは相当大変だっただろうな~…。
昔の人すごい。
記念碑を作るために、わざわざ鹿児島本土から2人の石切り職人を呼んだそう。
(小野喜右衛門とその弟子 平山登右衛門)
この記念碑の左に石の祠。
漁業の神様、“エビス様” が祭られています。
右には山崎伊勢右衛門を供養するための石碑が。
息子の山崎次兵衛が住民に声をかけ、協力して建てられたもの。
なぜ建てたかは不明。
この3つは同じ年につくられています。
一番左側には1932年につくられた、豊漁を願った記念碑。
一番新しいこの記念碑で90年近く前、古いものは300年以上前のもの。
今ある石造文化、最初の一歩になるのかな。
祖先が供養されてるっぽいし、整備しなきゃ。
でもすぐ後ろ崖だから怖いんだよな…。
竹島石で作られた見事な彫刻!
2人の職人のうち、弟子の平山登右衛門は少なくとも30年は島に残ったようです。
島の石加工技術の向上に貢献してくれました。
その後鹿児島に帰ったかどうかは不明。
ただ、彼の見事な彫刻は島の中にいくつも残っています。
1715年9月 聖大名神社の “唐猫”
神社を守る石像。
狛犬じゃなく、”唐猫”です。
中国の猫のこと。
他にも中国を感じる彫刻があります。
薩摩は江戸時代に中国との貿易を盛んにしていたので、その影響かな?
1716年6月 井川の石灯篭
これは発見できず。
守り神として仏像がありますが、廃仏毀釈で頭部が…。
蓮弁(はすの花弁)の土台がすばらしい彫刻。
1716年9月 聖大名神社の石垣
“切りこみはぎ” という造り方。
“はぎ” は “接ぐ” と書きますが、石のつなげかたのこと。
野面積み(石を加工しない)
↓
打ち込みはぎ(角や面を叩いて石を平らにして積む)
↓
切りこみはぎ(形を石が密着するように整形して積む)
という風に進化してきました。
1600年代前半から多用された技法らしいです。
1716年10月 井川の石段
竹島に簡易水道がひかれたのは1955年。
それまでは、この川に水を汲みに来ていました。
今いる島のおじいちゃんたちは、子どもの頃水くみが仕事だったとのこと。
それはかなりの重労働。
石段に足で踏みしめて凹んだ跡が残っています。
ここは今でも島の水源地。
島の生活にとって非常に大事な場所です。
1716年11月 聖大名神社の2つの石灯篭
三島村誌に「文化財に値する」と書かれている石灯篭。
こちらは保存状態がよいですが、もう1つは…、
同誌に
岩に打ち寄せる波をあしらい、上部は蓮葉の模様を刻んだもので、芸術の香り高い名作
三島村誌
と書いてありますが、発刊(1990年)されてから30年。
その間に壊れてしまったんでしょう…。
逆に、もう1つの灯篭が台風などを耐えて300年残っていることがすごい…!
高い彫刻の技術が残る、お墓
竹島には、見事な彫刻のお墓がいくつもあります。
その出来の良さは(三島村誌によると)文化財級!
ちなみにこのつくりは “五輪塔(ごりんとう)”。
仏教で言う地水火風空を表しているそうです。
他にも立派な墓があるのですが、竹やアコウの木によって墓が飲み込まれたり、倒れたり。
木に飲み込まれている様子は、自然の凄さを感じます。
が、手入れが困難。
そもそも生活に必要な場所の整備も不十分な現状。
なかなかしなくてもいい場所の整備をしようと思えません。
でも、調べて興味が湧いてくると、「ちゃんと残したい」と思ってきます。
わたしが興味が湧いたのは、祖先のこと。
今島にいる人の祖先がどんなことをしてたのか。
300年前のことがわかったら面白い。
興味を持つ人が増えたら、ちゃんと大事なものが引き継がれていくはず。
そのために形式的じゃなくて、住んでる人がちゃんと興味持てるような発信をしたいな~。
まず、自分がもっと知らないと。
ブログの歴史シリーズ、サボらずがんばります。
そして、価値のあるものを残すための仕組みも考えていきます!
GO!MISHIMA!!