こんばんは、すごくおひさしぶりです。
書きたくなったので、久しぶりにブログ書いてみます!!
ちょうど一年前の今頃のはなし。
カナダのクイーンシャーロット諸島をカヤックで回るツアーに参加しました。
ここはファーストネイションたちが140年前くらいまで住んでいたエリアで、南の端にあるスカングワイ島はトーテムポールが残っている世界遺産。
星野道夫が静かな浜辺にカヤックで着岸し、森の中を歩き回り、朽ちかけてゆくトーテムポールに対面するのはこの島でのできごとです。
関空、バンクーバーを経由して飛行機とゾディアックを乗り継いで行ったは良いが、天候が悪くて全然漕ぎ回ることができず。波も風も強すぎて、目的のアンソニー島にも到達出来ず。
結局ある無人島で数日間キャンプでの滞在をすることになりました。
島にはスプルースが林立していて、倒れ、朽ち、倒れた木からさらに何本も育ち、分厚く苔が生えています。この一コマの写真に、おそらく数百年のときが刻まれています。
こんな豊かな森の中、テントを貼って滞在しました。
苔がふかふかで、すごく寝心地のよい我が家。4泊くらいしたのかなあ。
結局こぎ回ることはできなかったのだけど、結果としてこれがすごく良かった。
ある程度の食料と燃料は持ってって、メンバーが釣り具やタモを持ってきてたのでお魚釣ったり巨大なウニを拾ったりして、それをいただきながらの生活でした。
この写真は上代さんから。
海岸には、たぶん嵐とかで倒れた木が流されてきた巨大な丸太が転がっていて、焚き火し放題。
何日もここでキャンプしてると、丸太をうまく並べて火力調節ができるコンロにしたり、温度上げるために朽ちた木の皮で火を覆ったり、着火のための枯れ枝がある場所のカンがわかってきたりと、身体が森に馴染むようになってきます。写真は野元さんから。
ハクトウワシや鹿、アザラシ、アライグマ。そういう野生動物も多数遭遇しました。
ひとりで森を散策していてすこし心細くなっても、同じ土地を踏む彼らがいることで心が和みます。
上の2点の写真は上代さんから。
こういう生活をしていると、自然と心が静まってくるのを感じます。
余計な情報に心を奪われない安らぎや、
住みかがあり、食べものがあり、ここでどうにか自分が生きてゆけることへの安心感。
当時のファーストネイションたちは、どんな思いで日々を送っていたのだろう?
彼らも同じようにこの景色を見ていたのだろうし、
同じようにハクトウワシに敬意の眼差しを送っていたのだろうし、
そして同じように、魚を釣ったりウニを拾ったりして食べていたのだろう。
たった数日間でも僕たちは森の使い方を学び、体をなじませてゆくことができたのだから、数千年ここで暮らしていた彼らは圧倒的に高い技術や知恵を持っていたことは想像に難くありません。
そして、その知恵はもう失われてしまった。
今ここで生活しているぼくたちと彼らとの違いは、テントや燃料などを持ち込まず、ここにあるものだけで全ての生活を成り立たせ、数千年も生きてきたということ。家も、服も、船も、食器も、全てここにあるものだけで彼らは暮らしていた。
自分たちの暮らしが全て自然に支えられていることを知っているから、彼らは魚やウニが絶滅するような獲り方をしなかったし、林がなくなるような皆伐ももちろんしなかった。
自然が健全な状態であるおかげで自分たちが生きていられるという事実を、考えるまでもなく感覚として知っていたから。だから彼らは自分たちを生かしてくれる自然を敬い、大切にした。
トーテムやカヤックに刻まれたどこか剽軽な印象のある独特の図柄は、彼らが尊敬と親しみを込めて自然界の仲間たちを表現したものだということが伝わってきます。丸太を少しずつノミで削りながら、その思いを刻み込んだのだろう、なんて想像します。
僕は、10年以上かけて地球の仕組みや歴史を学び、それを解き明かすための研究に携わってきました。その知識や経験から立ち上がった考えとして、自然を大切にしなくては、できるだけ環境負荷のない暮らしや文明を、ということを考え実践しているつもりだったけど、どこか自然と自分を切り離して考えていました。
生き物の命をいただいて生きている自分は、結局は自然の一部としてしか生きられない。
自然を大切にすることは、まさに自分のためだ。
そういうことが、この時初めて、体験の中から得た感覚として理解できました。
この経験は自分にとって大きかったなあ。
梅雨が始まって、静かな硫黄島の家で雨音をききながら思い出した話でした。