こんにちは、晋作です。
白石先生と調べる歴史シリーズ、前回に引き続き、「ガラン山」を調査しました。
今回調査したのは、「水神様」が祀られているといわれている場所。
前回調査した場所の道路向かいです。
八朔踊りという行事で踊っていた場所の1つでした。
実は前回ちょっと下見をしておりました。
ちゃんと見てみると、いろいろとおかしな点が…。
まず、左側の石が入ってる祠。
これは本来「コ」の字の石を縦に立てて、手前に扉?フタ?のような石の板を置き、屋根があるのです。
こういうやつですね。
これいっぱいあります。
この写真の左側の祠は、「コ」の字の石の手前に置くべき石板が、屋根との間に挟まっちゃってます。
右側に至っては、おかしい点しかない…。
実は、下側に積まれている四角の石、これが石碑だったんです!
これ!
全く別の石碑を横にして積んじゃうなんて、あまりに雑(笑)
何らかの文字が彫ってありましたが、このままでは判別不能!
そこで、水で土や苔を洗い流すと…
文字がくっきり!
どうやら、疱瘡という伝染病よけの石碑のようです。
三島村誌に載っている、疱瘡よけの石碑は5つありました。
聖大名神社に2基、九玉神社に1基、大山神社に1基、そしてガラン山に1基。
このガラン山の1基の場所が不明だったのですが、まさか…、横積みにされていたとは!
横を見てみると、作った年月が。
- 寛政??八月吉日
「寛政」の後が年数なんでしょうが…、なにこの文字?
三島村誌では「寛政二年」となっていますが、暦を表す「六十干支」を見ると、どうやら違う。
「八月」のすぐ上に横書きしてある部分。
おそらく、「壬子」。
だとすると寛政四年です。
疱瘡が流行ったのが寛政二年〜寛政五年らしいので、年代的には合っていそうです。
三島村誌と違うのは、彫ってある文字を「二」と判断したのか。
それとも、別の石碑なのか。
どちらにしても、他の神社より先駆けてこの場所に設置されています。
「ガラン山」は当時の竹島の人たちにとって重要な場所だったんでしょう。
もう一つ、こちらはちゃんと立っていた石碑。
やはり文字が判別しにくかったので、優しく苔を取り除きました。
正面は、「石碑を作りましたよ〜」というやつですね。
横は…
- 安政七年庚申二月吉日
- 疫病立願成就
- 為願 山本
これも三島村誌に載っていました!
前回の調査で発掘した石碑と同じタイミングで作られたものですね。
目的も同じく疫病よけのようです。
三島村ではこの前後でコレラや赤痢が流行していたので、両方、もしくはどちらかに対しての石碑と思われます。
三島村誌には、その二面の情報は載っていましたが、もう一面にも文字が。
- 川文神幷
- 末社諸神
- 竹嶋所中
かな?
すぐ近くにある石碑に「河神」という文字が彫ってあったので、これが水神様のことなのでしょうか…。
「代表となる神様」「そこに属するたくさんの神様」にお願いしている記述っぽい。
前回発掘した石碑には、おそらく違う神様が彫ってあります。
道路を隔てて別の神様が祀ってあるということ??
ん〜。
やっぱり「ガラン山」は謎が多いです!
引き続き白石先生と調査していきます!
GO !MISHIMA!!