こんにちは、晋作です。
先週宣言した、強力な助っ人を迎えての歴史シリーズ復活。
今回は、白石先生が島のおばあちゃんにヒアリング&調査!
その情報をもとに2人で考察した内容をお届けします。
おばあちゃん家の裏にある、石碑。
事の発端は、少し前の竹島青年会での作業中。
竹島青年会では年に1回、高齢者宅の清掃をします。
その際白石先生が石碑を発見したそうです。
これはなんの石碑だろう?
と気になっていて、先日そこの家に住むおばあちゃんに許可をもらい、見てきました!
いざ石碑の元へ
入り口付近の写真。
どこが入り口か、わかりますか?
ここ!
わたしも今まで何度も行ったことある場所ですが、知りませんでした。
切った草を捨てる場所かと…。(すみません。)
中に入ってみると、
なんだか神聖な雰囲気。
思ったより開けていました。
いくつかの石碑が並んでいます。
1番左の石碑、正面。
「奉造立」
“奉” はたてまつる。
“造立” はこの石碑をつくりましたよ、ってことですね。
下にまだ文字がある気がしますが…、読み取れません…。
1番左の石碑の右側。
「天正三」?
かな? 天正3年だとしたら1575年。
その下
「庚辰」
なのかな?
これを調べ出したら面白くて帰ってこれなくなりそうだったので、リンクを貼ります。
面白さをお裾分けしたいので、少しだけ…。
甲乙丙…ってあるじゃないですか?
あれは全部で10個あるんですって。
10日ごとのまとまりを “一巡” っていうので、“上旬” “中旬” “下旬”というらしいです。
甲乙丙と上旬などが関連してたのを初めて知りました。
この甲乙丙と、干支を順番に組み合わせると60通りできます。
これを暦(こよみ)に使っていたらしいのです。(六十干支という)
暦を一周すると、戻ってくるのが60年になり、つまり、”還暦” に…!
…面白いと思ったこと全部書いてしまいました…!
わたしが若干脱線している間も白石先生がいろいろ調べてくれていて、ボソッと一言。
“天正”なのかな?
そこから2人で予想合戦。
“文正”?正の字がおかしいよね?文正なら1466年ごろ…、いや2年までしかないや。
この “庚辰” が意味がわからん。年なの?月なの?日なの?
みたいな感じで、詳しい人がいたらすぐわかることですが、熱中して検索。
文が頭の他の年号はないかな、と調べると、“文政” という年号が。
ちょっと”政” とは読めないよね〜。
と調べてみると、昔、石碑に書いてあるような字体で “政” と書いていた情報が!
そして、よく考えると竹島に石切りの技術が伝わってきたのは1710年。
島の石でつくられた300年前の見事な彫刻。三島村の歴史vol.7。
天正には作ることができないはず。
文政3年なら1820年、そして六十干支では “庚辰” の年なんです!
おばあちゃんによると、大学の先生が来たときに
疱瘡(伝染病)の碑だ。
と言っていたそう。
前調べた情報だと、この頃に流行した大きな伝染病はなさそうでしたが…。
伝染病に悩まされた、江戸時代の人口。三島村の歴史vol.2。
まだ調査が必要そうです。
横にあった石造物は祠のようなものと…、丸い石?でした。
おばあちゃんに聞いたところ、この石造物群は別の島民の先祖のもの。
その子孫にあたる人が、お盆前に整備されているそうです。
今度は、その人にも話を聞いてみます!
また続編をお届けします!
GO !MISHIMA!!