極地研を辞めて、村役場に来ました。

By 2013年10月1日6月 26th, 2015離島ブログ

今日お伝えすることはタイトルの通り。

鹿児島の三島村役場で働いています。薩摩です。
長くなってしまいますが、今日はこういうことになった経緯をお話しします。

ポストがない
南極行かない?とお誘いをいただき、うひょー!っというわけで南極に行ってきたわけですが、このポストには期限がありました。3年間、2010年4月から2013年3月までという約束でした。ポスドクは普通こんな感じです。ただ本当に有り難いことに期限を1年延長してもらえまして、2013年3月以降も極地研に在籍させてもらっていました。しかし4年目を超えて極地研に在籍を続けるというのは制度上無理。行き先を探さねば、という状況がまずありました。

「自分のカタチ」
僕はこれまで生きてきたなかで、「自分のカタチ」に沿って生きてゆくのが正解だという答えに行き着いていました。飲んでてそういう話題になったりすると暑苦しくそういうことを伝えてきましたし、自分もそう在りたいと思って生きてきました。「自分のカタチ」というのは、平たく言うとのびのびとフルパワーを発揮したときに現れ出てくる姿であり、個人が持ってる能力、適性、興味の指向性のことです。詳しくはこちらを読んでください。昔書いた記事です。で、この「自分のカタチ」に沿って生きるのがいいんでないかい、という考え方って、僕が生きてきた環境の中ではマイノリティだったと思います。周囲の価値観は、高校では「成績いいやつ、東大か医学部ね」みたいな偏差値重視だったし、就職にしても「人気企業、安定企業」って感じだったし、服を買いにいっても「これ売れてますよ」って、僕に似合わなそうなのでも勧めてくるしで、近頃の若いモンは自分のカタチなんか全然考えとらんな、っていうことを常々感じていました。このへんの考えを進めてゆくと、「自分のカタチを知らずに生きること」と「日本人は皆と同じが好き」の2つが、年間三万人近い自殺者を出す原因になってるんじゃないか、という仮説みたいなものに至りました。こういう世の中に対する解決策として、「自分のカタチを探す思考ができ、そうやって生きる人間を世の中に増やしたいな」「そういうことができる場所をつくりたいな」とも考えるようになりました。

ぼくは「自分のカタチ」に沿っているのか?
とは言いながらもかく言う僕が、研究をやりながら自分の生き方に違和感を感じていたのでした。研究で色んな場所に行けるのは心底楽しかったけども、研究をやりながら時間を忘れて熱中する、という経験があまり無かったんです。「そんなもんだよ」と言われるかも知れないし、研究はそんなに甘くねえ、と言われるかもしれないし、熱中しきれないのは僕のメンタリティのせいだったりするのかもしれません。また、研究者としてのぼくが少なくとも優秀ではないことは周りを見れば分かりますから、競争の激しいこの世界で食いっ逸れるリスクから逃れるための言い訳なのかもしれません。やっぱり本当に向いていないのかもしれません。考えるほどいろんな理屈が立ちあがってしまいどれが自分の本心なのか分からなくなるのですが、リスクを突き抜けてゆくほどの熱い探究心、研究に対する情熱というのは、僕の中にはどうやら常駐してはいないなあというのも、残念ですが分かっていました。研究ができる周囲の友人や先輩の姿をみて憧れるとともに、そうではない自分に密かに絶望し、悔しく、情けなくも思っていました。それじゃあ僕のカタチにいちばん沿った場所ってどこだろう?

「この世界の雰囲気」を伝えるのは好きだな、と。
南極に行って帰ってくると、ちらほらと講演を頼まれることがありました。親子連れから、バーを貸し切って飲みながらのオトナ向け講演、企業での研修などでも呼んでいただき、僕が南極でやってきたこと、今やっている自分の研究、南極へ行くに至った経緯などをお話しさせてもらうような機会がちらほらとでてきました。で、これが楽しいわけです。昔から授業のTAや研究所の一般公開なんかをやってきて、自分の持っている知識を噛み砕いて伝えるのが好きだなと思ってはいたワケですが、これが面白い。彼らの目が輝いて、彼らの頭の中が僕の頭の中とリンクしている感じがたまらなく気持ちいいと感じるようになりました。

硫黄島でジオパークやらないか
そんなことを考えていた2013年の4月上旬、昔の指導教員の先生から電話がきました。「硫黄島でジオパークやらないか」。ジオパークというのは、世界遺産とかと似たようなユネスコ主導のプログラムで、ある土地の歴史、文化、民俗、生態系、人々のくらしなどのその土地の全ての営みと、それらを成り立たせる大地との繋がりを素材にしてその土地を観光地化する、という感じのプログラムです。環境負荷の少ない形での開発は許容し、地元経済の活性化を図ります。防災や教育プログラムの開発も含みます。地球と遊んで地元を元気に、でもお勉強もしましょうね、みたいな。これを薩摩硫黄島でやろうという話があがっているから、その専門スタッフに応募してみないか、というのです。

薩摩硫黄島
薩摩硫黄島というのは、鹿児島から屋久島に行くときに右手に見える火山島です。湧き出る温泉によって染まった赤い海や、煙を上げる火山、硫黄で黄色く染まった山肌、野生化した孔雀など、何かと印象的なものの多い島です(このブログのタイトル写真がそれです!赤や白の温泉水、見えますかね)。「アカホヤ」という名前のついた火山灰を噴出したことで有名な、ものすごい火山活動(火砕流が海をわたって鹿児島本土にいた縄文人を全滅させた)の張本人としても有名です。さらにこの島は歌舞伎「俊寛」の舞台でもあり、十八代目中村勘三郎がわざわざこの島に歌舞伎を演りにきたという、とても「濃い」島です。(「硫黄島からの手紙」の硫黄島とは別です。あっちは小笠原ね。)電話をくれた先生はこの島で起こっている諸々の現象を研究していて、この島の「濃さ」がそういう見た目や話題性だけでなく、科学的にも面白い現象に溢れているということを明らかにしてきました。ここ以外では聞いたことないわ、という現象がいくつも起こっているのです。特色溢れる面白い島で、それを素材に一般の人に面白がってもらう。これは僕に向いてそうだな、と直感的に思いました。しかもその研究を続けている先生の研究グループとはツーカーです。何よりD論までのフィールドにも近く、知識としての地の利もある。これは…!!!

本当にそれでいいのか
そうは思いながらも、もちろん葛藤はあります。東大で博士号をもらって、南極観測隊に行って、、普通にみると研究者としてはバリバリ感のあるコース。その道をから外れるというのは勿体ないんじゃないか?そんな迷いが心をよぎります。ここで島に行ったらこの道には簡単には帰っては来れないことになるけど、それでいいのか。研究からの逃げじゃないのか。負けじゃないのか。九州で暮らしたいだけじゃないのか。本当にジオパークをやりたいのか。安定したいだけじゃないのか。本当に安定できるのか。人口たったの350人の村でうまくいくのか。役場や村のひととはうまくやれるのか。そういうことを考えながら、自分がここでうまくやれる理由とやれない理由を沢山列挙して比較してみたりもしましたがもちろん答えは出ないので、「とりあえず一度、硫黄島に行ってみよう」ということにしました。

硫黄島へ
2013年の4月下旬。始めて島に行ってみると、その土地の持つ力をとてもよく感じることができました。噴煙をあげる硫黄岳を背景に赤い海水を湛える湾に船が進むと、海底の赤い泥が巻き上がり、赤い海水にひときわ赤い模様が流れます。港ではジャンベ隊が船の入港を歓迎。赤い海、火山、ジャンベのリズム。太古の世界なのかアフリカなのかわかりませんが、とにかく現代の日本ではない感じの暑いどこかの世界に紛れ込んだようようです。気を取り直して上陸し、島の方の案内でいろいろな場所を訪れました。

俊寛堂と満月の夜
俊寛を祭った「俊寛堂」という庵がありますが、ここが早速、お気に入りの場所になりました。俊寛堂は竹林のなかの小径を進んだ奥にあります。庵に到るまでの苔の絨毯がふかふかで歩き心地がよく、竹の葉の間を抜けてくる木漏れ日が足下に鮮やかな緑の模様をつくります。遠くから風に鳴る木々のざわめきが伝わってくるので決して静かではないのですが、苔の絨毯に音が吸い込まれるようで、歩きながら心が静まってゆきます。庵につくと自然と胸の前で手を合わせたくなりました。庵の前のベンチに腰をおろし見上げると竹の葉の隙間から空が輝き、息を吐きながら肩の力を抜くと、何かが体から抜けてラクな気持ちになれました。
いろいろと下調べを終えた夕方、暗くなってきた頃にひとりで東温泉に行ってみました。東温泉は、岩場に湧いた温泉をせき止めただけの湯だまりで、脱衣所も水道もありません。5 m 先は海という最高のロケーション、遠くには屋久島も伺える最高の温泉です。お湯につかって東の空を見上げると、満月が顔をだしていました。薄紫の空に輝く満月を見上げながら、ああ、ここならなんかやれそうだなと、そういう根拠のない自信が湧き上がってきました。この時初めて、ジオパークという仕事と、自分が将来やりたいと思っていることが頭の中でつながりました。この島をジオパークにすることは、将来自分がつくりたいと思っている場をつくるのに絶対に役立つぞ、と。それを一緒にやってくれる仲間探しや、保護者が大事なこどもを預けてくれるようになるための実績をここで積もう、ということを、お月さんを見ながら考えました。昼間に会った島の人たちの柔らかい雰囲気や力強い自然があり、ここならぼくの「自分のカタチ」を思う存分発揮できるかもしれない、と思えるようになりました。僕自身がいわゆるエリートコースから踏み出して自分のカタチに合った仕事を選ぶことこそ、僕が伝えたいと思っているメッセージを体現することになるんじゃないか、とも思えてきました。よし、やろう。
そんなこんなで硫黄島をジオパークにすることに決め、公募に応募し、晴れて10月1日から三島村役場の職員に着任することが決まりました。

村役場にて
というわけで、2013年10月1日付けで、三島村役場に着任しました。まずは日本ジオパーク認定に向けて実務をガシガシすすめながら早速出張にも行かせてもらったりと、いきなり高め安定な忙しさでやっています。村役場は諸事情により鹿児島市内にあるため、現在は鹿児島市内にて暮らしています。天文館のそばに住んでいるので間違いなく美味しそうな店がたくさんあるのはわかりますが、飲んでる暇など全くない状態。てか都合よく友達もいないので、毎日夜までお仕事に専念できています。
役場の方々はとっっても親切で、異文化からやってきた僕に丁寧に仕事を教えてくださいます。役場での企画のたて方回し方を覚えたら島に入り、ツアーサイトの選定やガイド養成、土産品の開発などをやってゆきます。今はその日を楽しみにしながら、この島のこれまでの研究情報を整理したり、頭をひねって面白いツアーの内容を考えています。考え始めたらアイデアが出るわ出るわ!今まで築いてきたつながりがここぞとばかりに活きていて、しばらくは興奮の日々が続きそうです。硫黄島に興味を持ってくれた知人とのコラボの仕事も動きだしました。もっといろいろ企てたい!!お友達の皆さん、ぼくと一緒に面白い仕事しませんか?
人口350人の村の役場に博士(南極観測隊)が来たということで話題にもなっているようで、さっそく地元の新聞社が取材に来てくださり、また、地元の旅行会社と提携した船での1日クルーズツアーも企画されました。準備が大変なのですがスーパー前向きなモチベーションでがんばれています。

そしてこの週末
この週末は、予定されていた島でのイベントが高波のため中止になってしまい急遽あいたので、仕事や部屋の片付け(引っ越しダンボールがまだ積んだままだった)や散髪、料理など、久しぶりに自分の時間を過ごしています。んでやっとブログに着手できました。あと個人のホームページも作りたいんだよなー、とか思いつつ今日はここまでかな。

長くなってしまいましたが、極地研を辞めて鹿児島の三島村役場で働いています、ということと、それに至った経緯のご報告でした。

というわけで…九州ーーーーーーーーー!!!!

大岩根尚

About 大岩根尚

宮崎生まれ。大学時代から地質学・海洋地質学を専攻し、2010年に東京大学にて環境学の博士号を取得。卒業後は国立極地研究所に就職し、南極観測隊として南極の調査に参加。2013年10月より三島村の地球科学研究専門職員に転身し、村のジオパーク認定に尽力した。2017年4月より三島村の硫黄島に移住し会社を設立。教育、人材育成にもフィールドを広げ活動中。